子供英語教室の案内に必ずといっていいほど登場するのがフォニックス。
きっても切れないほど重要なように掲載されている。 どれくらいの時間数を何歳くらいの子供たちに教えるべきか。
英語国の子供たち向けに英語国の初等教育現場から生まれたこの教授法、果たして日本のこどもたちが外国語として英語を学ぶ場合に どの程度の有用性があるのか検証が必要かと。
英単語の4分の一は不規則なつづりだそうだ。 つまり3歩あるいて4歩目には落とし穴
にはまる、これが英語。 なぜそうなったかは欧州の歴史を振り返ればわかるかな。
フォニックスは文字と音声の「規則的な関連性」を追及した教授法だけれどそれらは すべて文の最小単位である単語を(意味は度外視して)より正確に、より効率よく(より楽に)音声化できることをめざしている。
ただ、日本の子供たちは日常生活で英語を運用する段階にまでいっていないのが大半。植民地だった国の子供たちともずいぶん異なる環境で暮らしている。
また、日本の子供たちにとって一番高いハードルは「文章構造のちがい」ではないのかな。
外国語教育といえば 一般には、真っ先に単語を覚えさせる、という行動がとられるけれど文全体を頭に刻むことを最優先すべきではないのかな。
ドイツ語やフランス語を英語に転換することにくらべると、これはまた日本語は無条件降伏せざるを得ないかもですね。
イヤイヤ、Finlandのようなウラル語族の国でも英語教授法が研究されて以来、外国人が訪れても不自由しないそうですから日本語の特殊性について自己弁護する日本人の習性はそろそろ世界的に通用しなくなってきたかも。 ウーン。怪しい影が。
楽をしたいのが人間の本性、なので努力という負荷を自分にかけて奮い立たせる。
時代の風はまさにぬるま湯から常温へ、更にすこし冷たく吹きかけている。
エスペラント語がなぜ世界の共通語になりえなかったのか。
背景に人間の文化、歴史がないからだ、というのは周知の事実。 英語つづりの不規則性はまさに世界史を背景に背負っている事の醍醐味であって 単に苦行としてとらえるとスペリングを憶える楽しさがなくなる。
読み方を教えるときは茶化し術にかぎる。 同じ表音文字でも日本語の「かな」と英語のalphabetはずいぶん特徴が異なる。
Wolfgang Wolf のせりふにHmmmm,what a nice apple tree this is ?というのがある。 エイチエム、エム、エム、エムって言ってるかな。 こんな比較言語学はみんな大好き。
かたひじはらずに まずは楽しむ(ふざける?)にかぎる! でしょう?